Gの知的生活。

「知的生産」という言葉が好き。カメラや読書や、美味しい食べ物も好き。

“ひらめき”を記録する

突然にやってきて、そのままにしておくとすぐ消えてしまう、“発見”。

「さっき、なんか良いアイデアを思いついたんだけど、
 何歩か歩いてる間に忘れちゃった…なんだったっけなぁ。」

こんなコトは、よくよくあるコト。



アイデアを思いつくことを「ひらめいた」と言うけれど、
これは本当によくできた言葉だと思う。
そう、アイデアは一瞬の“閃き”であり、放っておけば消えてしまう。

例によって、「知的生産の技術」を引用してみる。

記憶というものは、ほんとにあてにならないものである。どんなに記憶力のすぐれた人でも、時間とともにその記憶はたちまち色あせて、変形し、分解し、消滅してゆくものなのである。(170ページ)

アイデアは、思いついた時点でしっかり“記録”しておかなければならない。
“記憶”に残っているつもりで油断していると、すぐに消えてしまう。


それと同時に、“記憶”と“記録”についての記述も興味深い。

頭のなかに記憶するのなら、カードにかく必要はない。カードにかくのは、そのことをわすれるためである。わすれてもかまわないように、カードにかくのである。標語ふうにいえば「記憶するかわりに記録する」のである。(54ページ)

たとえば「メモ帳に書く」ことは“忘れない”ように書くというイメージがあるが、
記録することにより逆に、“忘れてもいい”ということになる。


たとえば買い物に行く際に、
「牛乳と、パンと、あぁそうだ、納豆も買わなきゃ!」
…と、“記憶”をたよりに出かけたとすると、
買い物が終わるまでずっとこの「牛乳、パン、納豆」が頭に居座ることになる。
万が一、スーパーでたまたま納豆が品切れになっていた場合、
買い物が終わってもずっと、頭のなかに「納豆」が残り続けることになる。
(もしくは、買い物の途中でついカゴに入れ忘れて買いそびれた場合も同様)


このことは、先述のアイデアについてもいえる。
思いついたアイデアを“記録”しておかないと、そのアイデアは頭の片隅に居座り続ける。
いつ消えてなくなるか分からない“閃き”を消してはいけないと、
常にその記録されていないアイデア(買い出しの際の「納豆」)は、
脳のリソースの一部を使い続けることになる。

そのまでは、新しい次のアイデアを“閃く”ために脳の全力を活用することはできない。

ものごとは、記憶せずに記録する。はじめから、記憶しようという努力はあきらめて、なるだけこまめに記録をとることに努力する。これは、科学者とはかぎらず、知的生産にたずさわるものの、基本的な心得であろう。(170ページ)

という、結論に達するのです。


そのため、その“記録”のための装置として、『発見の手帳』が必要になる。


【ポイント1】常に持ち歩けるサイズであること

【ポイント2】いつでも書けるよう、メモと筆記具をセットで扱えること


この2点を満たしていることが、とっても重要。