Gの知的生活。

「知的生産」という言葉が好き。カメラや読書や、美味しい食べ物も好き。

発見の手帳

梅棹忠夫は、レオナルド・ダ・ヴィンチを主人公にした長編小説「神々の復活」について、「知的生産の技術」の中でこう書いている。

『神々の復活』にでてくるダ・ヴィンチは、もちろん、よくしられているとおりの万能の天才である。しかし、この天才には奇妙なくせがあった。ポケットに手帳をもっていて、なんでもかでも、やたらにそれにかきこむのである。(中略)かれの精神の偉大さと、かれがその手帳になんでもかでもかきこむこととのあいだには、たしかに関係があると、わたしは理解したのである。(22ページ)

すでに絶版になってる本だったけど、近所の図書館にあったので読んでみた。

レオナルド・ダ・ヴィンチ―神々の復活〈上〉

レオナルド・ダ・ヴィンチ―神々の復活〈上〉


おぉ!
たしかに、手帳についての記述があった。
(作中では弟子が、師であるダ・ヴィンチからこう指示を受けたという体裁で)

師はこう言われた。
「お前が遠近法をすっかり修得して、人体の釣合を暗記してしまったら、散歩のとき一生懸命に人間の運動を観察するがいい。立っている姿、歩く姿、話をする姿、口論する姿、笑う姿、喧嘩する姿、それからまたそれを引き分けようとする人の顔つき、黙って見物する人の顔つき——こういうものを悉く観取して、色紙で作った小さな手帳に、できるだけ早く鉛筆で書きこむがよい。
また、手帳はいつでも肌身離さず持って歩かねばならぬ。いっぱいになったら、また新しいのに替えて、古いのは大切に蔵って、保存するがよい。殊に記憶すべきは、このスケッチを棄てたり、消したりしないで、保存するということだ。なぜならば、自然における人体の運動は、じつに限りないもので、どんなに記憶のいい人でも、憶えきれないからだ。こういうわけだから、このスケッチを優れた教訓者か、師匠のように思って眺めるがよい。」
余はこういう手帳を拵えて、その日のうちに師の口から聞いた記憶すべき言葉を、毎晩書き留めることにした。

実際、一説には10000ページ以上にわたるメモも残っているそうだし、
この小説の表現は、ある程度その事実に沿った内容なんだろうなぁ。

梅棹忠夫は、そうしてダ・ヴィンチから「手帳」を学び、実践したらしい。
それも、同じ本に感動した仲間も一緒に手帳を持ち始めたそうな。
そのメンバーの一人が、『KJ法』で有名な川喜多二郎ってあたりも、またすごい。

わたしたちが「手帳」にかいたのは、「発見」である。まいにちの経験のなかで、なにかの意味で、これはおもしろいとおもった現象を記述するのである。あるいは、自分の着想を記録するのである。
(中略)
わたしは、この手帳に、自分で「発見の手帳」という名をつけていた。(24〜26ページ)

ちなみに、この『発見』についての考察もヒジョーにわかりやすい。

「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるものである。
(中略)
「発見」はだれにでもおこっているはずである。それはしかし、瞬間的にきえてしまうものだ。そのまま、きえるにまかせるか、あるいはそれをとらえて、自分の思想の素材にまでそだてあげるかは、その人が、「ウィルソンの霧箱」のような装置をもっているかどうかにかかっている。「発見の手帳」は、まさにそのウィルソンの霧箱なのである。(28〜29ページ)

※ウィルソンの霧箱とは、肉眼では観察することのできない、宇宙から降り注ぐ宇宙線を一瞬の光の筋として観察する装置のことをいう。
霧箱 - Wikipedia

梅棹忠夫は、この「発見の手帳」をさらにすすめて、
B6サイズの京大カードを手帳の代わりに常に持ち歩く方法をとった。


しかし、前の記事において書いたように、
カードの代わりのルーズリーフ - A5ルーズリーフde知的生産計画
ボクは京大カードではなく、A5サイズのルーズリーフを使うことにした。
当然、ポケットに入れて常に持ち歩くことなんて、不可能だ。
(もちろん、京大カードだってポケットには入らない)


だけど、この「発見の手帳」の思想には非常に感銘を受けたので、
常にメモ帳を持ち歩いて、着想やアイデアを逃さないようにしようと決めたのでした。


ただ、メモ帳にメモを蓄積するだけではその後の“活用”がうまくいかないので、
カード化して活用する“しくみ”をしっかりと考えなきゃだ。