故・梅棹忠夫に出会った
なにかのビジネス書を読んでいた時に、おすすめの書籍に挙げられていたこの一冊。
- 作者: 梅棹忠夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1969/07/21
- メディア: 新書
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ここ数年、古くても10年以内に出版された本が大勢を占めるなか、1969年発売と群を抜いて古いこの本が、なんだかやけに気になった。
書名の「知的生産」という言葉にも、なんだか無性に惹かれた。
さっそく図書館に行って読んでみて、あまりにおもしろかったので一気に読み終える。
そして、そのまますぐ書店に行き、買ってしまった。
本を読んで、こんなに衝撃を受けたことはなかった。
著者である梅棹忠夫の考え方、そして手法に、ただひたすら感動した。
それと同時に、これまでの自分がいかに考えなしに生きてきたんだろうかと猛省した。
まず、一番最初に印象に残ったのが、この一文。
なんにもかいてなかったら、わたしは毎日大発見をしたような気になっても、じっさいのわたしの知的活動の内容は、何年もまえとおなじところで足ぶみしているかもしれないのだ。(28ページ)
これまでの人生では多くの物事を学び、体験してきたつもりだった。
でも、考えてみれば、それを記録に残して蓄積するという行為は、ほぼまったくと言って良いほどできていない。
代表的な学生時代のノートだって、その場で板書を写して、テストが終わったら、もう見返すことはない。
今となっては、それらのノートなんて全部資源ゴミに出されて再生紙になっている(と思う)。
当然、自分のアタマの中に全部記憶できているワケはない。
…いや、むしろ、ほとんど入っていない。
学生時代のコトだけじゃない。社会人になってからだって、状況的には大差ない。
これまでにやってきたシゴトだって、その場その場で処理はできても、ろくに記録に残してきていない。
毎回同じようなトコでつまづき、毎回同じように調べたり工夫したりして、処理をしているような。
…まさしく、ボクは“足踏み”している。
今日では、情報の検索、処理、生産、展開についての技術が個人の基礎的素養として、たいせつなものになりつつあるのではないか。(18ページ)
まさしく、その通り。
シゴトに限らず、日常生活の諸々にしたって、この考え方は生きるはずだ。
むしろ、そうしなきゃいけない。
そう、心底思った。
この瞬間から、梅棹忠夫はボクの“心の師”になったのでした。